首相動静(1月9日)(時事通信)

 午前8時現在、公邸。朝の来客なし。
 午前10時1分、公邸発。
 午前10時28分、東京・田園調布の私邸着。
 午後1時6分、私邸発。
 午後1時20分、東京・玉川の百貨店「高島屋玉川店」着。
 午後1時38分から同2時21分まで、同百貨店内の和食料理店「柿安三尺三寸箸」で幸夫人と食事。
 午後2時25分から同3時3分まで、同百貨店内の文房具店「銀座・伊東屋」などで買い物。同4分、同所発。「きょうはどうだったか」に「久しぶりに公邸の外で買い物して、解放感を味わった」。
 午後3時21分、東京・田園調布の浅間神社着。幸夫人とともに参拝。同27分、同所発。「何を祈ったのか」に「国民の皆さんの平和です」。同37分、私邸着。
 午後4時18分、松井孝治官房副長官が入った。
 午後5時6分、松井氏が出た。
 午後6時35分、私邸発。
 午後7時1分、公邸着。
 10日午前0時現在、公邸。来客なし。(了)

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<日本神経科学学会>ヒトの脳研究倫理指針、9年ぶり改定(毎日新聞)

 脳や神経の研究者らでつくる日本神経科学学会(津本忠治会長、約5500人)は8日、9年ぶりに改定したヒトの脳研究の倫理指針を公表した。研究内容が拡大解釈され、科学的根拠のない言説が広がったり、人の選別や差別につながらないよう、成果の発表の仕方に配慮を求めることなどが追加された。

 倫理指針は01年1月、「心を読まれるのではないか」といった脳科学研究への懸念を防ぐため策定された。近年、工学や教育学など多分野の研究者が脳研究に参入し、被験者へのインフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意)の不十分なケースが散見されるなどの問題が出てきたため、昨年12月に改定した。

 従来は学会の会員だけに周知していたが、脳をテーマにした番組や書籍がブームになるなど社会の脳研究に対する関心が高まっているとして公表した。津本会長は「学術論文は専門家のチェックを経る。研究成果を一般の方が見る際、その成果がきちんと学術論文として受理されているかどうかに注意してほしい」と話した。【西川拓】

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<山口彊さん死去>「8月6、9日は僕の命日」(毎日新聞)

 もう二度と被爆者を作らないで−−。4日に93歳で死去した二重被爆者の山口彊(つとむ)さん=長崎市=は、死の1カ月前まで病室で海外メディアの取材を受けるなど、平和のメッセージを発信し続けた。家族のきずなを何よりも大切にしていた。最期はその家族に見守られて、穏やかに旅立った。

 オバマ米大統領の登場に「今が核廃絶のチャンス」と希望を見いだし、期待を寄せた「核なき世界」の実現は間に合わなかった。

 8月以降、入退院を繰り返し、12月ごろには見る見るうちにやせ衰え、以前のような張りのある声は出なくなっていた。

 命の光が弱くなる中、12月7日には、病室でスイスのテレビ局の取材を受け、か細い声で必死に戦争の愚かさや原爆の恐ろしさを訴えた。

 12月22日には、来日中の米国映画界の巨匠、ジェームズ・キャメロン監督が病室を訪問。原爆をテーマにした映画の構想を聞いた山口さんは英語で「私の役目は終わった。後はあなたに託したい」と語り、固く手を握ったという。

 「自分の幸福は家族」と口癖のように話していた。1月3日には家族の手を握って「みんなで力を合わせて、ひ孫を育てていくように」と語り、翌4日早朝、静かに息を引き取ったという。

 8月6日と9日のことを「僕の命日」と言い「核兵器廃絶のために生かされている」との思いを持っていた。09年3月、世界で初の二重被爆者として公式認定され、そのニュースは原爆の悲惨さの象徴として世界中を駆け巡った。「平和のバトンをつなげなければいけない」が口癖だった。

 趣味の短歌に思いを込めた。

<非核平和永久(とわ)に護(まも)らす神あらば青き地球は亡(ほろ)びざるべし>

 遺族は、この短歌を墓碑に刻もうと思っている。【阿部弘賢、宮下正己】

 ◇広島に出張 戻った長崎

 三菱重工業長崎造船所の設計技師だった山口彊さんは45年5月、妻子を長崎に残し、3カ月の予定で広島に長期出張。8月7日に長崎へ戻る予定だった。

 6日朝、広島市内を走る路面電車の駅を降り、職場に向かって歩いている途中、空に白い落下傘が二つ見えた。「地上に白い光が満ち、膨張する大火球を見た。ものすごい爆風で吹き飛ばされた」。被爆した山口さんは左上半身に大やけどを負った。

 翌7日朝、原子野と化した広島市内を歩いた。川面にはおびただしい死体があった。この時に見た光景を基に、戦後「大広島炎(も)え轟(とどろ)きし朝明けて川流れ来る人間筏(いかだ)」の短歌を詠んだ。

 同日昼過ぎ、避難列車に乗り、8日に長崎にたどり着くと9日には造船所に出社。広島での様子を上司に報告している最中、窓の向こうに再び閃光(せんこう)が見えた。上空に上がるきのこ雲を見て「まるで(きのこ雲に)追いかけられているみたいだ」とつぶやいたという。

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